農林水産行政における予算の概算要求は、単なる次年度の財政支出案ではありません。それは、日本が直面する人口減少、気候変動、不透明な国際情勢という難局に対し、国がどのようなビジョンを持って立ち向かうかを示す「政策の羅針盤」です。事業者や農業従事者にとって、この資料を精緻に読み解くことは、数年後の営農環境や補助事業のトレンドを予測し、中長期的な経営戦略を策定するための極めて実利的な行為となります。
特に、令和8年度の概算要求は、日本の農政史における「歴史的な転換点」としての重みを持ちます。その最大の理由は、20年ぶりに全面改正された「食料・農業・農村基本法」の理念を、実効性のある予算として定着させるフェーズに入るためです。令和7年度から開始された「初動5年間の集中実行期間」が本格的な深化期を迎え、有事を見据えた「食料安全保障の確立」と、持続可能な「構造転換」に向けた投資が一段と強化されます。
この記事では、令和に入って以降の変遷を辿りつつ、令和8年度の予算動向が日本の農林水産業にどのようなパラダイムシフトをもたらすのかを、技術的・政策的観点から専門的に解説します。
概算要求の変遷:令和2年から令和7年まで
日本の農林水産予算は、この数年で劇的な変化を遂げてきました。令和2年以降の概算要求を振り返ると、その時々の社会情勢(パンデミック、環境問題、国際情勢の悪化)が色濃く反映されていることがわかります。
令和2年度〜令和3年度:コロナ禍とDXの胎動
令和2年度の概算要求(総額2兆7,307億円)では、「農林水産物・食品の輸出力強化」と「スマート農業」の実現が大きな柱となっていました。しかし、その後の新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、令和3年度(総額2兆7,734億円)は「コロナ禍でも揺るがない生産基盤の構築」が最優先課題となりました。
この時期の特筆すべき変遷は、「デジタル化(DX)」の加速です。非接触・非対面型の流通改革や、スマホで補助金申請が可能な「eMAFF」の構築、ロボット農機の社会実装などが予算の重点事項として浮上しました。
令和4年度:環境重視への転換と「みどり戦略」
令和4年度(総額2兆6,842億円)の概算要求において、農政の歴史を塗り替える大きな戦略が予算の中心に据えられました。それが「みどりの食料システム戦略」です。
食料・農林水産業の生産力向上と持続可能性の両立を目指し、化学肥料・農薬の使用低減や、有機農業の拡大、農林水産業のカーボンニュートラル実現に向けた研究開発に多額の予算が配分されるようになりました。これは、世界的な脱炭素の動きに呼応したものであり、現在の農政の基盤となっています。
令和5年度〜令和7年度:食料安全保障の確立と構造転換
令和5年度(総額2兆6,808億円)以降、ロシアによるウクライナ侵攻などを背景とした世界的な食料・生産資材価格の高騰を受け、「食料安全保障の確立」が予算の最上位概念となりました。
令和7年度(総額2兆6,389億円)には、食料・農業・農村基本法の改正を踏まえ、「農業の構造転換」を実現するための初動5年間の集中実行期間がスタートしました。輸入依存からの脱却、麦・大豆・米粉の国内生産拡大、そしてスマート農業技術の活用促進がより具体化されました。
令和8年度概算要求の全体像と基本的考え方
令和8年度の農林水産予算概算要求は、総額2兆6,588億円(令和7年度当初予算額2兆2,706億円に対する要求)となっています。
新たな食料・農業・農村基本計画や、現下の米をめぐる情勢を踏まえ、「農業構造転換集中対策」を着実に実施することが最大の狙いです。具体的には、食料安全保障の強化、農業の持続的な発展、農村の振興、そして環境と調和のとれた食料システムの確立を4つの柱としています。
予算規模の推移
- 令和2年度 2兆7,307億円
- 令和3年度 2兆7,734億円
- 令和4年度 2兆6,842億円
- 令和5年度 2兆6,808億円
- 令和6年度 2兆7,209億円
- 令和7年度 2兆6,389億円
- 令和8年度 2兆6,588億円
総額としては安定しているように見えますが、その中身は、かつての公共事業中心から、スマート農業技術、環境対策、輸出促進といった「ソフト面」や「技術革新」への投資へとシフトしているのが特徴です。
令和8年度の重要施策:食料安全保障の強化
令和8年度概算要求において、食料安全保障は引き続き最重要項目です。不測の事態においても国民に食料を安定供給できる体制を構築するため、以下の施策が強化されています。
需要に応じた生産と国内自給力の向上
• 水田活用の直接支払交付金等(2,960億円): 麦・大豆等の戦略作物の本作化や、ブロックローテーションの推進、保管施設の整備を通じて、輸入依存度の高い作物の国内生産を強力に推進します。
• 米穀等安定生産・需要開拓総合対策事業(40億円): 生産意欲を支える政策として、地域全体での生産性向上や、革新的な新品種への切り替えを支援します。
• 持続的生産強化対策事業(160億円): 野菜、果樹、花きなどの生産基盤を強化し、遺伝子解析技術を活用した家畜改良なども推進します。
生産資材の安定確保
世界情勢に左右されない農業を実現するため、「国内資源の活用」に重点が置かれています。
• 国産肥料の利用拡大: 堆肥や下水汚泥資源などの代替資源への転換を推進します。
• 国産飼料の増産: 飼料生産に立脚した酪農・肉用牛支援を行い、輸入飼料への依存度を低減します。
輸出力の強化と新たな市場開拓
2030年輸出5兆円目標の実現に向け、攻めの農政も継続されます。
• 輸出産地・事業者の育成・展開(81億円): 輸出先国の規制に対応した産地形成や、サプライチェーンの連結強化、インバウンドを通じた日本食消費の拡大を支援します。
令和8年度の重要施策:農業の持続的な発展とスマート農業
労働力不足が深刻化する中、「スマート農業」はもはや補助的な手段ではなく、日本農業存続のための「必須インフラ」へと位置づけが昇格しています。

スマート農業技術の社会実装加速
• スマート農業技術活用促進集中支援プログラム(306億円): 前年度(182億円)から大幅に増額されたこのプログラムは、令和8年度概算要求の目玉の一つです。スマート農業技術の開発・供給、サービス事業者の育成、高温耐性品種の開発などを集中的に支援します。
• サービス事業体の活用: 農家が自ら高価な機械を購入するだけでなく、スマート農業技術を「サービス」として提供する事業体(農業支援サービス)の育成を強化しています。
担い手の確保と農地の集約化
• 地域計画の実現に向けた支援(725億円の内数): 将来の農地利用の姿を示す「地域計画」に基づき、農地を引き受ける担い手への農業機械導入や、農地バンクを活用した集約化を支援します。
• 新規就農者育成総合対策(177億円): 次世代を担う人材の育成・確保、雇用労働環境の整備を推進します。
令和8年度の重要施策:環境負荷低減と多面的機能
「みどりの食料システム戦略」の具体化が進む中、環境対策は収益性と両立する形での実装が求められています。
グリーンな生産体系への転換
• みどりの食料システム戦略推進総合対策(39億円): 農畜産分野におけるグリーンな生産体系への転換や、有機農産物の生産・需要拡大を加速化させます。
• 環境保全型農業直接支払交付金(29億円): 化学農薬・化学肥料を5割以上低減する取組と合わせ、地球温暖化防止や生物多様性保全に効果の高い営農活動を支援します。
森林資源の循環利用(森の国・木の街)
• 森林・林業・木材産業グリーン成長総合対策(182億円): 森林の集積・集約化、スマート林業の実装、JAS構造材やCLTの利用促進による「木の街」づくりを推進します。
• 花粉症解決に向けた総合対策: スギ人工林の伐採・植替えを加速化し、花粉の少ない苗木の生産拡大を支援します。
スマート農業の深掘り:なぜこれほどの予算が必要なのか
令和8年度概算要求で特に目立つのがスマート農業関連予算の拡充です。ここで、スマート農業がもたらす具体的な効果と、その定義を再確認しましょう。
「スマート農業」とは、ロボット、AI、IoTなどの先端技術を活用する農業のことです。 従来の人手による作業を自動化・省力化するだけでなく、データの活用によって「熟練者の勘」を数値化し、誰もが高度な農業を実践できるようにすることを目指しています。
スマート農業の3大効果
1. 作業の自動化: ロボットトラクタや、スマホで操作する水田管理システムにより、人手をかけずに効率的な生産が可能になります。
2. 情報共有の簡易化: 経営管理アプリと位置情報の連動により、作業記録をデジタル化。熟練者でなくても主体的な生産活動が可能になります。
3. データの活用: ドローンや衛星によるセンシングデータと気象データをAI解析。病虫害の予測や生育管理を精密に行い、高度な農業経営を実現します。
令和8年度の予算では、これらの技術を単に「導入」する段階から、地域全体で「使いこなす」段階へと引き上げるための支援(集中支援プログラム)に重きが置かれています。
輸出5兆円目標への戦略:マーケットインへの転換
令和2年度以降、一貫して強化されてきたのが輸出戦略です。当初の「余ったものを売る」という発想から、令和8年度は完全に「マーケットイン(相手国のニーズに合わせて作る)」への転換が図られています。
輸出拡大のための具体的アプローチ
• GFP(農林水産物・食品輸出プロジェクト): 生産者と輸出事業者を結びつけ、診断から計画策定までを一貫して支援するプラットフォームです。
• HACCP対応の施設整備: 輸出先国の厳しい衛生基準をクリアするための施設改修や機器整備を強力に支援します。
• 知的財産の保護: 日本が誇る優良品種の海外流出を防ぐため、育成者権の管理・保護を徹底します。
まとめ:令和8年度概算要求が描く未来
令和2年度からの概算要求の変遷を振り返ると、日本の農政は「守り」から「攻め」、そして「持続可能な強さ」の構築へと進化してきたことがわかります。
令和8年度概算要求は、単なる予算の積み上げではなく、改正基本法の下で「農業の構造転換」を完遂するための戦略的な投資と言えます。スマート農業による生産性の飛躍的向上、環境負荷低減による持続可能性の確保、そして食料安全保障の確立。これらが三位一体となって推進されることで、日本の農林水産業は次世代へと継承される基盤を固めることになります。
2兆6,588億円という予算の裏には、私たちの「食」を未来へ繋ぐための数多くの挑戦が詰まっています。
参考文献
- 令和3~8年度農林水産予算概算要求の概要
- 食料・農業・農村基本法(令和6年改正)
- スマート農業技術活用促進法
- みどりの食料システム戦略
- 食料安全保障強化政策大綱
