はじめに ― 肥料輸入依存という日本農業の課題
日本の農業生産は、その基盤となる肥料の多くを海外からの輸入に依存しているという、極めて脆弱な構造の上に成り立っています。植物の生育に不可欠な三大要素である窒素、リン酸、カリウムのうち、その原料となる尿素、りん酸アンモニウム、塩化カリウムについては、ほぼ全量を輸入に頼っているのが現状です。かつて、りん酸アンモニウムについては中国からの輸入が全体の7割以上を占めるなど、特定の国への依存度が極めて高い状態にありました。
この構造的リスクが顕在化したのが、2021年半ば以降の出来事です。世界的な穀物需要の増加や原油・天然ガス価格の上昇に加え、主要輸出国である中国による肥料原料の輸出検査厳格化、さらにはウクライナ情勢の緊迫化などが複合的に作用し、肥料原料の国際価格は歴史的な高騰を見せました。これにより、日本の農業現場では生産コストが急増し、食料の安定供給そのものが脅かされる事態となりました。
こうした事態を受け、政府は食料安全保障の強化を喫緊の課題として位置づけました。令和5年12月27日に改訂された「食料安全保障強化政策大綱」においては、肥料の過度な輸入依存からの脱却と、国内資源の有効活用が明確な目標として掲げられています。具体的には、2030年までに堆肥・下水汚泥資源の使用量を倍増し、肥料の使用量(リンベース)に占める国内資源の利用割合を現在の25%から40%まで拡大するという野心的な数値目標が設定されました。本稿では、この国家的な目標達成に向けた切り札として期待される、下水汚泥資源の肥料利用、特に「りん回収」に関する最新の動向と事例について詳述します。
下水汚泥が秘める肥料ポテンシャル
日本国内には約2,200か所の下水処理場が存在し、そこから日々排出される下水汚泥は、まさに「都市にある鉱山」とも呼べる未利用資源です。全国の下水処理場からは、年間約235万トン(乾燥重量ベース)もの下水汚泥が発生しています。この膨大な量の下水汚泥には、肥料成分として有用な窒素やリンが豊富に含まれており、試算によれば年間発生汚泥量の中に約5万トンものリンが含有されているとされています。これは日本国内の農業で必要とされるリン酸肥料のかなりの部分を賄えるだけのポテンシャルを秘めています。
しかしながら、その利用実態は決して十分とは言えません。令和4年度時点での下水汚泥の肥料利用率は、発生汚泥量ベースでわずか約14%にとどまっています。残りの大半は、セメント原料などの建設資材として利用されるか、あるいは単に焼却・埋立処分されているのが現状です。肥料として利用されている場合でも、これまではコンポスト(堆肥)化が主流であり、より付加価値の高いリン資源としての回収・利用は限定的でした。
この状況を打破するため、下水道事業を所管する国土交通省は、下水汚泥の処理に関するパラダイムシフトを打ち出しました。令和5年3月に発出された「発生汚泥等の処理に関する基本的考え方」においては、下水道管理者が今後汚泥処理を行うにあたっては、「肥料としての利用を最優先」とし、最大限の利用を行うことが明記されました。これは、従来の下水道行政が「適正処理」や「減量化」に重きを置いていたのに対し、「資源循環」と「食料安全保障への貢献」を最上位のミッションへと転換させた画期的な方針と言えます。
下水汚泥からのりん回収技術
下水汚泥から肥料成分であるリンを回収する技術は、近年目覚ましい進化を遂げています。現在、実用化または実証段階にある主な技術は以下の通りです。
MAP法(リン酸マグネシウムアンモニウム法)
現在最も普及が進んでいる技術の一つです。下水処理の過程で発生する消化汚泥や脱水ろ液等に対して、マグネシウム化合物を添加することで、化学反応によりリン酸マグネシウムアンモニウム(MAP)の結晶を生成・析出させます。この結晶は、緩効性の肥料として優れた性質を持ち、「リン酸マグネシウムアンモニウム」として公定規格にも登録されています。
灰アルカリ抽出法
下水汚泥を焼却した後の「焼却灰」からリンを回収する技術です。焼却灰にアルカリ溶液を加えてリン酸分を溶出させ、その後、脱リン材等を用いて回収します。焼却設備を持つ自治体において、焼却灰の処分量を減らしつつ資源回収ができるメリットがあります。
CSH法(ケイ酸カルシウム水和物法)
反応槽内に充填した種結晶(ケイ酸カルシウム水和物)の表面に、下水中のリンをヒドロキシアパタイトとして晶析させる方法です。回収された物質は、く溶性(植物の根から出る酸に溶ける性質)のリン酸肥料として利用可能です。
バイオ炭によるリン回収
下水汚泥を炭化させて製造した「バイオ炭」に、水中のリンを吸着させる、あるいは炭化の過程でリンを濃縮して保持させる技術です。土壌改良材としての機能と肥料としての機能を併せ持つ資材として期待されています。
下水汚泥燃焼灰の肥料化(菌体りん酸肥料)
これは特定の成分を抽出するのではなく、下水汚泥の焼却灰そのものを肥料として利用するアプローチです。下水汚泥燃焼灰には平均して27%程度という高濃度のリン酸が含まれています。後述する新たな公定規格「菌体りん酸肥料」の創設により、成分調整や有害成分の管理を行った上で、燃焼灰をそのまま肥料原料として活用する道が大きく開かれました。
最新事例:全国に広がるリン回収の取り組み
政府の方針転換や技術革新を受け、全国の自治体で下水汚泥からのリン回収プロジェクトが加速しています。ここでは、令和6年以降の最新動向を中心に具体的な事例を紹介します。
横浜市:B-DASHによるMAP法実証
横浜市では、国土交通省の革新的技術実証事業(B-DASHプロジェクト)を活用し、北部汚泥資源化センターにMAP法によるリン回収施設を整備しました。この施設は令和6年3月に本格稼働を開始しており、回収されたリンは「よこはまMAP1号」として肥料登録されています。また、市民への普及啓発を図るため、「はま巡リン」というロゴマークを作成し、地産地消の推進にも力を入れています。
東京都:CSH法による国内初の大規模実証
東京都下水道局は、砂町水再生センターにおいてCSH法を用いたリン回収施設を整備し、令和6年1月に稼働を開始しました。これはCSH法としては国内初の実規模レベルの施設であり、大都市におけるリン資源循環のモデルケースとして注目を集めています。
神戸市:市内2基目のリン回収施設とアワード受賞
神戸市は早くからリン回収に取り組んできた先進都市であり、東灘処理場での実績に加え、玉津処理場において市内2基目となるMAP法リン回収施設の整備を進め、令和6年度中の稼働を予定しています。また、同市の「資源循環こうべ再生リンプロジェクト」は、その先駆性と地域への貢献が評価され、第1回国内肥料資源利用拡大アワードにおいて全国推進協議会奨励賞を受賞しました。JA兵庫六甲と連携し、配合肥料「こうべハーベスト」として販売するなど、出口戦略も含めた完成度の高い取り組みとなっています。
福岡市:市内3基目の施設整備
福岡市もリン回収に積極的な自治体の一つであり、既に2つの処理場で稼働していますが、さらに西部水処理センターにおいて市内3基目となるMAP法施設の整備を令和6年度B-DASH事業として進めています。福岡市とJA全農ふくおかが連携した「未利用資源(堆肥・再生リン)を活用した新規エコ肥料の開発および資源循環の構築」は、第1回国内肥料資源利用拡大アワードで農林水産省農産局長賞を受賞しており、農業サイドと深く連携したモデルが高く評価されています。
その他の地域での展開
これらの大都市以外でも、独自の取り組みが進んでいます。島根県の宍道湖西部浄化センターでは令和7年度の稼働を目指してB-DASH実証が進められており、広島県福山市ではバイオ炭によるリン回収という新技術の実証が行われています。また、鳥取市や岐阜市では灰アルカリ抽出法による実績が積み上げられています。
名古屋市:燃焼灰の「菌体りん酸肥料」として全国初登録
特筆すべきは名古屋市の事例です。同市は空見スラッジリサイクルセンターで製造される固形燃料化物(乾燥汚泥)について、令和5年に新設された公定規格「菌体りん酸肥料」への登録申請を行い、令和6年7月、全国で初めて登録が完了しました(登録名称:循かん大なごん)。これにより、従来は単独での利用に限られていた汚泥肥料が、他の肥料と混合可能な原料として扱えるようになり、流通の可能性が飛躍的に拡大しました。
埼玉県・北九州市のユニークな取り組み
埼玉県では荒川水循環センターの汚泥燃焼灰を「荒川クマムシくん1号」として肥料登録し、積極的な利用を進めています。また、北九州市では「BISTRO下水道」と銘打ち、下水汚泥肥料を活用してホップを栽培し、地ビールを醸造・販売するというユニークな地域連携モデルを展開しています。この取り組みもアワードで奨励賞を受賞しています。
安全性の確保 ― 重金属分析支援事業の成果
下水汚泥の肥料利用における最大の懸念事項は、重金属等の有害物質の含有です。この不安を払拭し、科学的根拠に基づいた安全性を証明するため、国土交通省は「下水汚泥資源の肥料利用拡大に向けた重金属・肥料成分等の分析支援事業」を実施しています。
令和5年度および6年度にかけて、全国で延べ112団体(32都道府県、80市町村、118処理場)に対して分析支援が行われました。FAMIC(独立行政法人農林水産消費安全技術センター)の定める公定法に基づき、ヒ素、カドミウム、水銀、鉛などの重金属含有量が測定されました。
令和6年4月に公表された分析結果によれば、調査対象となった脱水汚泥等のうち、約95%にあたる73処理場で、肥料取締法に基づく重金属等の基準値を下回っていることが確認されました。この結果は、多くの下水処理場の汚泥が、適切な管理下であれば安全に肥料として利用可能であることを示しており、今後の利用拡大に向けた大きな後押しとなります。
制度・支援体制の整備
技術や実証だけでなく、制度面の整備も急ピッチで進められています。
最も重要な改正の一つが、令和5年10月の公定規格「菌体りん酸肥料」の創設です。これまでの「汚泥肥料」という規格では、他の化学肥料などと混ぜて「指定混合肥料」や「配合肥料」を作ることが認められていませんでした。しかし、新たな規格である「菌体りん酸肥料」として登録されれば、他の肥料原料と混合することが可能になります。これにより、肥料メーカーが既存の流通ルートに乗せて販売しやすくなり、農業者が使いやすい成分バランスの肥料を提供できるようになりました。
また、実務面でのサポートとして、令和6年3月には国土交通省より「下水汚泥資源の肥料利用に関する検討手順書(案)」が公表されました。これは自治体の担当者が肥料化を検討する際のバイブルとなるもので、成分分析の方法から肥料登録の手順、販売戦略までが網羅されています。
財政支援としては、令和6年度より新たに「下水汚泥肥料化推進事業」等の補助金が創設され、施設整備や成分分析にかかる費用への支援が強化されました。さらに、自治体と肥料メーカー、農家などを結びつける「大規模案件形成支援事業」も継続して実施されており、マッチングの機会が提供されています。これらを推進する母体として、農林水産省、国土交通省、JA全農、日本下水道協会などが参画する「国内肥料資源の利用拡大に向けた全国推進協議会」も設立され、オールジャパン体制でのバックアップが行われています。
公共施設での活用拡大 ― 新たな需要開拓
下水汚泥肥料の用途は、食料生産だけでなく、緑地管理などの非食用分野にも広がっています。令和7年の取組方針として、公園等の公共施設における利用促進が重点項目として挙げられました。
長野県では、県営下水処理場で製造した肥料「アクアピア1号」を、国営アルプスあづみの公園内のチューリップ畑で試験的に施肥し、生育状況を確認する取り組みを行っています。また、新潟県では、県管理の公園や緑地、植物園に加え、国道403号の路側帯の植栽管理に乾燥汚泥肥料を活用し、令和5年度には4.8トンの利用実績を上げています。
公共施設での利用は、自治体内部(下水道部局と公園・道路部局)での調整で完結しやすく、需要と供給のマッチングが容易であるという利点があります。また、美しい花や緑を育てる肥料として市民の目に触れることで、下水汚泥肥料に対する心理的なハードルを下げ、理解を促進する効果も期待されています。
課題と今後の展望
着実な進展を見せる下水汚泥の肥料利用ですが、2030年の目標達成に向けては依然として課題も残されています。
第一に、施設整備コストの高さです。特に高度なリン回収施設はイニシャルコストが高額になりがちで、中小規模の自治体にとっては導入のハードルとなります。B-DASHプロジェクト等を通じた低コスト化技術の開発と普及が引き続き求められます。
第二に、流通経路の未整備です。肥料を作っても、それを農家に届ける物流や販売のルートが確立していなければ利用は広がりません。特に、汚泥肥料特有の形状や成分のバラつきを敬遠する肥料メーカーや農家も少なくありません。肥料としての品質安定化(ペレット化など)や、JA等と連携した広域的な流通システムの構築が不可欠です。
第三に、消費者・農業者の理解促進です。安全性が科学的に証明されていても、「下水汚泥由来」という点に対する漠然とした不安感は根強く残っています。分析データの透明性ある公表や、愛称の公募、試用キャンペーンなどを通じて、地道に信頼を積み重ねていく必要があります。
国は令和7年度以降も、案件形成支援や成分分析支援、施設整備補助を継続する方針を示しており、これらの課題解決に向けた支援を強化していく構えです。
まとめ
輸入資源に依存した農業からの脱却と、持続可能な循環型社会の構築。この二つの大きな課題に対し、下水汚泥からのリン回収は極めて有効な解決策を提示しています。2030年までに国内資源利用割合を40%に高めるという目標は決して容易ではありませんが、横浜、東京、神戸、福岡、名古屋といった都市での先進的な取り組みは、その実現可能性を示唆しています。
今後は、国、自治体、肥料メーカー、農業者、そしてJA等の関係機関が、それぞれの垣根を越えて連携を深めることが不可欠です。「汚泥」を「厄介な廃棄物」から「貴重な国産資源」へと再定義し、社会全体で活用していく。その転換点に、私たちは今立っています。
