山の斜面や谷間の傾斜地に、幾段にも重なる水田——。そのような棚田の光景は、日本の農村文化が育んだ美しい原風景のひとつです。農林水産省の定義によれば、棚田とは「傾斜20分の1以上の傾斜地に階段状に作られた水田」を指し、「日本のピラミッド」とも称されるほど、伝統・文化・景観・教育・国土保全といった多面的な価値を有しています。しかし近年、その棚田が深刻な危機に直面しています。
人口減少や高齢化による担い手不足が急速に進む中山間地域では、棚田の維持に必要な多大なコストを賄えなくなるケースが増えています。地形的な生産条件の厳しさも相まって、全国各地で棚田の荒廃が現実の問題となっているのです。耕作放棄地の増加は、農業生産力の低下にとどまらず、土砂災害リスクの上昇や生態系への悪影響、さらには地域固有の文化や景観の消失にもつながりかねません。
こうした状況を打開すべく、国は棚田を「農業生産の場」だけでなく、国土保全・文化継承・観光・教育の場として多角的に捉え直す新たな政策を積極的に推進しています。その根幹となる法律が、令和元年(2019年)に制定された「棚田地域振興法」(正式名称:棚田地域振興法)です。本記事では、この法律に基づく最新の取り組みを整理し、棚田地域がいかに変わろうとしているかを解説します。
制度のいま:棚田地域振興法に基づく「指定」と「計画」の力
指定棚田地域の全国への広がり
棚田地域振興法の中核的な仕組みが、「指定棚田地域」の指定制度です。内閣府地方創生推進事務局が主導し、国の指定を受けた地域は様々な支援措置を受けやすくなります。農林水産省のウェブサイトによると、令和7年12月25日に第27回の指定が行われ、指定棚田地域は全国にさらに広がりました。この指定制度は令和元年の法施行後、着実にその範囲を拡大し続けており、全国各地の中山間地域が棚田振興の「旗手」として名乗りを上げています。
指定を受けるためには、傾斜20分の1以上の棚田が存在することはもちろん、「棚田地域振興のための措置を講ずることが適当」と認められる条件や、「棚田地域振興活動が円滑かつ確実に実施されると見込まれる」基準を満たす必要があります(令和7年6月改定の基本方針より)。つまり、指定は単なる「認定」ではなく、地域が主体的に活動する意欲と体制を備えているかどうかを問うものでもあるのです。
振興活動計画の認定とその効果
指定棚田地域の市町村が「指定棚田地域振興協議会」を組織し、策定するのが「棚田地域振興活動計画」です。内閣府地方創生推進事務局の最新情報によると、令和8年1月現在、棚田地域振興活動計画は39道府県において173計画が認定されています(令和8年1月30日に第27回認定実施)。この計画に認定されることで、地域は農林水産省が管轄する農山漁村振興交付金をはじめ、農山漁村地域整備交付金、中山間地農業ルネッサンス事業など、複数の国庫補助事業を有利な条件で活用できるようになります。
計画には、棚田の保全活動はもとより、農産物の6次産業化、農泊・グリーンツーリズムの推進、石垣の修復といった農地整備、さらには関係人口の創出に向けたイベント開催まで、多彩な活動内容を盛り込むことができます。市町村が音頭をとり、農家・NPO・企業・都市住民など多様なステークホルダーが一堂に会して計画を策定するプロセスそのものが、地域コミュニティの再活性化にもつながっています。
令和7年・8年を見据えた最新基本方針の方向性
令和7年6月10日に閣議決定された「棚田地域の振興に関する基本的な方針」(一部変更)は、棚田振興の大きな方向性を示す重要な指針です。この方針では、棚田地域の振興が目指すべき目標として、次の3点が柱として掲げられています。
第一に、棚田等の保全と農業の振興。農業生産活動を維持し、耕作放棄を防ぐことが基本です。第二に、棚田の有する多面的機能の維持・発揮。国土保全、水源かん養、生物多様性保全、良好な景観の形成といった、市場では評価されにくい公益的機能を社会全体で支えていく考え方です。第三に、棚田を「核」とした地域振興。農業振興にとどまらず、観光・教育・文化・福祉など、棚田を中心にした幅広い地域づくりを推進します。
また基本方針では、「関係人口の創出」と「持続可能性の確保」が重要テーマとして位置付けられています。都市部に住む人々が棚田に足を運び、農作業体験やオーナー制度を通じて地域と継続的につながる関係を築くことが、人口減少時代における棚田維持の新たな戦略として注目されています。さらに、申請・計画策定・各種手続きのワンストップ化も進められており、地域が支援を受けやすい環境整備が進んでいます。
つなぐ・支える仕組み:棚田コンシェルジュと企業連携
棚田地域振興コンシェルジュ:課題をワンストップで解決
棚田振興を進める上での障壁のひとつが、「どこに相談すればよいか分からない」という地域の声です。石垣の修復方法、農産物の販路開拓、農泊施設の整備補助——こうした多様な課題に対応するために設けられたのが、「棚田地域振興コンシェルジュ」の制度です。
令和5年8月1日現在、コンシェルジュは施策担当コンシェルジュ336名と地域担当コンシェルジュ85名の計423名が選任されています(内閣府資料より)。農林水産省(地方支分部局)が最大の242名を占めるほか、総務省・文化庁・国土交通省・環境省・内閣府など関係府省庁が横断的に参加しているのが特徴です。観光庁の地方支分部局からも11名が加わっており、農業・文化・観光・環境が一体となった支援体制となっています。
具体的な支援内容は多岐にわたります。協議会設立段階では、ワークショップのための外部アドバイザーの紹介や活用可能な施策の情報提供を行います。計画策定段階では、先進地区の事例紹介や計画書作成・申請支援を行います。そして活動実施段階では、イベント開催・6次産業化・農泊・観光振興・環境保全等に応じた専門家を紹介するなど、地域のライフステージに応じた伴走型支援が行われています。コンシェルジュ名簿は公表されており、協議会は直接相談することも可能です。
企業とのパートナーシップ:つなぐ棚田遺産と感謝状制度
棚田振興には、民間企業の力も欠かせません。農林水産省は、「つなぐ棚田遺産」の認定制度を通じ、棚田地域と企業のCSR(企業の社会的責任)活動・ESG投資とを結びつける取り組みを推進しています。令和6年1月には「つなぐ棚田遺産感謝状贈呈式」が開催され、棚田地域を支援した企業等に対して感謝状が贈呈されました。
企業が棚田地域を支援する形はさまざまです。棚田米の購入や棚田産品のPRから、従業員による農作業ボランティア、石垣修復への技術提供、棚田を舞台にした社員研修・チームビルディングまで、企業の強みを活かした多彩な関わり方が可能です。SDGsの「陸の豊かさを守ろう(目標15)」「住み続けられるまちづくりを(目標11)」「気候変動に具体的な対策を(目標13)」など、棚田保全は複数のSDGs目標に直結しており、企業のESG評価向上にも貢献できます。
農業生産を超えた多面的機能への評価
棚田が持つ価値は農業生産だけではありません。農林水産省が重視する「農業の多面的機能」という概念のもと、棚田は次のような公益的役割を果たしています。洪水調節・土砂崩れ防止・地下水涵養といった国土保全機能、生物多様性の保全(棚田には絶滅危惧種を含む希少な動植物が生息・生育しています)、水辺の景観形成、そして農業文化の継承といった教育的機能です。
これらの多面的機能を金銭的に評価する研究も進んでいます。公的支援の根拠として、多面的機能支払交付金や中山間地域等直接支払交付金(傾斜20分の1以上の農地に対して交付金を交付)、さらには「ふる水・棚田基金」など複数の財政的支援が設けられており、農業者や地域活動組織を後押ししています。棚田を守ることは、特定の地域の農家だけの話ではなく、国民全体の財産を守る行為として位置付けられているのです。
魅力を世界へ:ソフト施策による情報発信とファンづくり
棚田カード:コレクションが生む周遊観光
棚田の魅力を広くPRするユニークな施策として全国の棚田ファンに親しまれているのが、「棚田カード」プロジェクトです。農林水産省では、平成30年に31府県の担当者とともに「棚田カードプロジェクトチーム(PT)」を立ち上げ、「棚田に恋」というキャッチフレーズのもとPR活動を展開してきました。

令和7年4月23日には第5弾(4県7地区)が新たに発行され、第1弾(令和元年7月、31府県56地区)からの累計地区数は36府県259地区に達しました(農林水産省プレスリリース、令和7年4月23日)。カードの表面には四季折々の美しい棚田写真、裏面には棚田の枚数・面積・傾斜・作付け品種・歴史などの詳細情報が記載されており、コレクターズアイテムとしての魅力も高まっています。
棚田カードは現地に赴いて受け取る「現地配布型」を基本としており、カードをきっかけとして実際に棚田を訪れる人が増えています。配布場所の周辺観光地を巡る「棚田めぐり」の文化が各地に根付きつつあり、地域経済への波及効果も期待されます。棚田カードと合わせて配布される「棚田めぐりガイド」や「棚田めぐりマップ」も、旅の計画を立てる際の強力なツールです。
つなぐ棚田遺産:ブランド認定で全国へ発信
棚田の魅力を発信するもう一つの重要な取り組みが、「つなぐ棚田遺産〜ふるさとの誇りを未来へ〜」の認定制度です。これは、従来の「棚田百選」(平成11年選定)の後継として位置付けられ、外部有識者で構成される選定委員会が厳格な基準に基づいて優良な棚田を選定するものです。令和4年2月14日開催の選定委員会(第2回)において、全国271の棚田が「つなぐ棚田遺産」として選定されました。
選定された棚田は、農業生産の場としての機能はもちろん、景観の美しさ、地域住民による保全活動の取り組み状況、農業文化の継承度合いなど、多面的な観点から評価されています。認定地区では、農林水産省が作成したパンフレットや首都圏のアンテナショップを活用したプロモーションも実施されており、都市住民への認知度向上に貢献しています。「つなぐ棚田遺産」のブランド認定は、地域の誇りを可視化し、国内外への発信力を高める重要な手段となっています。
デジタル×リアル:若年層・都市住民を引きつけるPR戦略
棚田振興のPR戦略は、デジタルとリアルの融合によって進化しています。農林水産省の公式SNS(X・Instagram・Facebook・YouTube)では、棚田の四季折々の美しい写真や動画が定期的に発信されており、フォロワーの間でシェアされることで拡散力を高めています。Instagramでの「#棚田」タグを中心に、棚田を訪れた人々が自ら撮影した写真を投稿する文化も広がっており、ユーザー生成コンテンツ(UGC)として大きな力を発揮しています。 各地域では、棚田を舞台にしたフォトコンテストや収穫祭、田植え体験イベントなどを通じて、若年層や都市部在住者を棚田に引き寄せる工夫を凝らしています。農林水産省が整備した「棚田キラーコンテンツ化促進ガイド」では、こうした情報発信・体験コンテンツづくりのノウハウが整理されており、各地域のPR担当者が参考にできる実践的なヒントが提供されています。さらに、棚田地域での農泊(農村型ワーケーション)の普及も進んでおり、リモートワークの広がりを追い風に、都市部のビジネスパーソンが棚田のある農村に中長期滞在する新たな流れも生まれています。
未来への展望:持続可能な「棚田経営」に向けて
スマート農業とDX:中山間地でのテクノロジー活用
棚田地域の担い手不足と高齢化という構造的課題を乗り越えるカギのひとつが、スマート農業とデジタルトランスフォーメーション(DX)の活用です。令和6年版農業白書(農林水産省)でも触れられているように、農業用ドローンやICT(情報通信技術)を活用した農業は、中山間地においても着実に普及しつつあります。
急傾斜地が多く機械化が難しい棚田では、農業用ドローンによる農薬散布や施肥が、労力軽減と作業効率向上の有力な手段として期待されています。また、圃場センサーやスマートフォンアプリを活用したICT水管理は、水路の水位や水温をリアルタイムで把握し、農家が現場に駆けつけなくても遠隔操作で水管理を行えるようにするものです。高齢の農家の体力的な負担を大幅に軽減できるとして注目されています。さらに、
「デジ活」中山間地域(農林水産省・農村振興局が推進するデジタル技術活用支援プログラム)の枠組みのもと、棚田地域でのデジタル技術導入を後押しするモデル事業も展開されています。自動走行農機、AI活用による生育診断、ドローンと農業センサーを組み合わせた精密農業など、先進技術の棚田への応用可能性は年々広がっています。ただし、急傾斜地での技術活用には安全管理上の課題もあり、現場の実態に即した丁寧な導入支援が求められます。
関係人口の創出:「関わり続ける」仕組みづくり
棚田の持続的な維持には、地域住民だけでなく、都市部を中心とした「関係人口」の存在が不可欠です。「訪れる」だけでなく、「関わり続ける」仕組みを作ることが次世代への継承につながります。棚田地域で現在広まりつつある「関係人口創出」の取り組みをいくつかご紹介します。
棚田オーナー制度は、都市住民が一定の区画の棚田を「オーナー」として契約し、農家と一緒に田植えや稲刈りを体験しながら収穫物(お米)を受け取る仕組みです。単なる農業体験にとどまらず、農家との継続的な交流が生まれ、地域の暮らしや文化への理解が深まります。中には毎年通い続けるリピーターも多く、地域コミュニティの「準構成員」として棚田を支える存在になるケースもあります。
ワーケーション(ワーク+バケーション)の棚田版として、農村型ワーケーションも注目を集めています。棚田の美しい景色の中でリモートワークをしながら、農業体験や地域交流も楽しむというスタイルは、ウェルビーイング(心身の充実)への関心の高まりとも相まって、特に30〜40代のビジネスパーソン層に支持されています。農泊施設の整備が進む棚田地域では、こうした需要を受け入れる素地が整いつつあります。
さらに、小中高生を対象にした農業体験や食育プログラム、大学生・研究者によるフィールドワークの受け入れも、次世代の棚田ファン・担い手の育成につながる重要な取り組みです。棚田地域振興基本方針においても、小中高生の農作業体験等の場の提供および学術研究のフィールドとしての活用が、棚田振興の意義として明確に位置付けられています。
公民連携で次世代に棚田をつなぐ
棚田は、日本の農業と農村の歴史が積み重なった「生きた文化遺産」です。その維持と継承は、農家や地域住民だけの責務ではなく、社会全体で担うべき課題です。棚田地域振興法という「公的な枠組み」が整備され、指定棚田地域と振興活動計画による行政支援の体系化、棚田コンシェルジュによる専門家支援のワンストップ化、企業との連携によるCSR・ESG活動の促進、そして棚田カードや「つなぐ棚田遺産」を通じた情報発信とファンづくりが、多層的に組み合わさって機能しています。
スマート農業の導入やワーケーションの普及といった新しい潮流は、「棚田に関わる人」の裾野を広げる大きな可能性を持っています。都市と農村をつなぎ、消費者・企業・自治体・研究者・観光客が一体となって棚田を支える新しいモデルが各地で花開きつつあります。「棚田は地域の宝」——その言葉が示す通り、美しい棚田の景観と、そこに生きる人々の営みを次世代へとつないでいくことが、私たちに今、問われています。
棚田に興味を持たれた方は、ぜひお近くの棚田カード配布地区を訪れてみてください。そして棚田を支援したいとお考えの企業・団体の方は、農林水産省の棚田地域振興担当窓口や各地の棚田地域振興協議会に問い合わせてみることをお勧めします。あなたの関わりが、日本の原風景を守る力になります。
棚田めぐりマップ
https://www.maff.go.jp/j/nousin/tanada/card_list.html
参考文献
- 農林水産省「棚田地域の振興について」
- 内閣府地方創生推進事務局「認定棚田地域振興活動計画について」
- 内閣府地方創生推進事務局「棚田地域の振興に関する基本的な方針(令和7年6月10日閣議決定)」
- 内閣府地方創生推進事務局「棚田地域振興コンシェルジュによる支援(令和5年8月1日現在)」
- 農林水産省「つなぐ棚田遺産〜ふるさとの誇りを未来へ〜の選定について」
- 農林水産省「棚田の魅力が1枚に!棚田カード第5弾 発行(令和7年4月23日)」
- 農林水産省「令和6年度食料・農業・農村白書(第6章第6節 中山間地域農業等の振興)」
