日本の農業、そして私たちの「食」の未来を大きく左右する国家戦略をご存知でしょうか。農林水産省が令和3(2021)年5月に策定した「みどりの食料システム戦略」は、食料・農林水産業の生産力向上と持続性の両立をイノベーションで実現するための、極めて野心的で中長期的なロードマップです。
現在、日本の食料供給システムは、地球温暖化による大規模災害の頻発や、生産者の急激な減少・高齢化という、かつてない危機に直面しています。また、令和6(2024)年6月には、農政の基本理念を定める食料・農業・農村基本法が25年ぶりに改正され、環境負荷低減を通じた持続可能な食料システムの確立が新たな柱として位置づけられました。環境負荷低減と持続可能な食料生産を実現する新戦略の全貌を解説します。
なぜ今「みどりの食料システム戦略」が必要なのか?
世界に目を向けると、地球の限界を意味する「プラネタリー・バウンダリー」のうち、気候変動や生物多様性など4項目ですでに境界を超えていると警鐘が鳴らされています。国際社会ではEUが2020年に「Farm to Fork(農場から食卓まで)戦略」を打ち出すなど、持続可能な食料システムへの移行は世界の重要課題となっています。
日本においても、農林水産分野の温室効果ガス(GHG)排出量は、国内総排出量の約4%(4,790万t-CO2)を占めています。その内訳は、稲作からのメタン(27.3%)や家畜の消化管内発酵(18.1%)、燃料燃焼(29.9%)などが主因です。
さらに深刻なのが担い手不足です。今後20年間で、基幹的農業従事者は現在の約4分の1である30万人にまで減少することが見込まれています。環境への負荷を減らしながら、少ない人数で食料供給能力を維持・強化するという、極めて難度の高い課題を解決しなければならないのです。
2050年に向けた驚異の数値目標(KPI)
「みどりの食料システム戦略」は、これまでの延長線上ではない野心的な目標を掲げています。2050年をターゲットとした主なKPIは以下の通りです。
- 農林水産業のCO2ゼロエミッション化の実現。
- 化学農薬の使用量(リスク換算)を50%低減:ネオニコチノイド系等に代わる新規農薬や防除技術を開発。
- 輸入・化石燃料由来の化学肥料の使用量を30%低減。
- 耕地面積に占める有機農業の割合を25%(100万ha)に拡大。
- 食品製造業の労働生産性を3割以上向上。
これらの目標達成に向け、2040年までに革新的な技術・生産体系を開発し、2050年までに社会実装を完了させるという2段階の工程が組まれています。
戦略の柱1:スマート農業による「生産性の革新」
人が減る中で環境負荷を抑える鍵は、先端技術の活用です。
例えば、ドローンや衛星データを用いた「ピンポイント農薬・肥料散布」は、必要な場所にだけ資材を投入することで、使用量を劇的に抑えつつ作業時間を短縮します。また、自動走行トラクターや自動水管理システムの導入により、大規模な面積を少人数で管理できる体制を構築します。
2024年10月に施行された「スマート農業技術活用促進法」は、こうした技術を導入する農業者に対し、日本政策金融公庫による最長25年の長期・低利融資や、取得価額の32%の特別償却といった手厚い支援を用意し、社会実装を強力に後押ししています。
戦略の柱2:施設園芸の脱炭素化「スマートグリーンハウス」
日本の施設園芸(ビニールハウス等)の約9割は依然として化石燃料(A重油等)による加温に依存しています。これを解決するのが、「ハイブリッド型施設園芸設備」と「ゼロエミッション型施設」への転換です。
重油ボイラーに代わり、電気エネルギーで効率的に冷暖房を行うヒートポンプの導入が進んでいます。また、廃棄物焼却施設から出る余熱や廃CO2をパイプで回収し、ハウスの暖房や光合成促進に再利用する「地域エネルギー循環」の取り組みも、富山県などの次世代施設園芸拠点で始まっています。
データに基づきハウス内の環境を1分単位で精密制御するスマートグリーンハウスは、収量を全国平均の3〜5倍に高める一方、エネルギーの無駄を徹底的に排除します。
戦略の柱3:地球を冷やす「バイオ炭」と「炭素貯留」
農業は温室効果ガスを排出するだけでなく、吸収・貯蔵する機能も持っています。
注目されているのが「バイオ炭」の農地施用です。木材やもみがらを炭にすることで炭素を固定し、それを土壌に混ぜることで、数百年単位で炭素を地中に貯留できます。これは「J-クレジット制度」の対象となり、削減したCO2が農家の新たな収益源となる仕組みも整備されています。
青森県の事例では、地域の間伐材を用いたバイオ炭を堆肥に混ぜて活用することで、慣行栽培と比較して10aあたりの温室効果ガス排出量を63.8%削減することに成功し、付加価値の高い農産物として販売されています。
戦略の柱4:有機農業を「地域ぐるみの産業」へ
2050年に25%という高い目標を達成するため、特定の個人ではなく地域全体で取り組む「オーガニックビレッジ」の創出が進んでいます。令和7(2025)年3月時点で、全国250市町村を目標に、すでに137市町村が取り組んでいます。
徳島県の東とくしま農協では、土壌分析に基づく科学的な「BLOF理論」を用いた有機栽培を推進し、ブランド米としての高付加価値化と安定生産を両立させています。
また、有機農業の手間を軽減するため、太陽光パネルで自走する「アイガモロボット」の開発も進んでいます。これは泥をかき混ぜて雑草の成長を抑えることで、除草剤を使わずに済む画期的なスマート技術です。
消費者の行動変容を促す「見える化」の取り組み
どんなに環境に良い農産物を作っても、それが消費者に伝わらなければ市場は広がりません。そこで農林水産省が導入したのが、環境負荷低減の度合いを星の数で表示するラベル、愛称「みえるらべる(ChoiSTAR)」です。
温室効果ガス削減や生物多様性保全への貢献度を「見える化」することで、消費者が直感的に環境に良い商品を選べるようにしています。大阪のスーパー「サンプラザ」では、このラベルを積極的に活用し、デジタルサイネージ等で情報発信した結果、消費者から高い支持を得ています。
調査では、約4割の消費者が「環境に配慮した農産物を気にかけている」と回答しており、さらに約6割が「割高でも環境に配慮した農産物を選ぶ」意向を示しています。
政策手法の「グリーン化」と支援体制
本戦略は単なるスローガンではありません。今後、国の支援の形自体が大きく変わります。
その象徴が「クロスコンプライアンス(みどりチェック)」です。令和6(2024)年度から試行が始まっており、将来的に、国の補助金を活用する農業者は、肥料の適正管理などの「最低限行うべき環境負荷低減の取り組み」の実践が必須要件となります。
また、産官学が連携するプラットフォーム「スマート農業イノベーション推進会議(IPCSA)」が設立され、成功事例の共有やマッチングを通じて、技術の現場実装が加速しています。
私たちの食卓が未来を創る
「みどりの食料システム戦略」は、生産現場だけの変革ではありません。食品ロスの削減(2030年度までに事業系ロスを2000年度比で半減)や、見た目重視の規格の見直し、そして「みえるらべる」がついた商品の積極的な選択。これら消費者一人ひとりの行動が、持続可能な食料システムを支える最大の原動力となります。
2050年、日本の田園風景が、最新テクノロジーと豊かな自然が調和した「みどりの姿」であり続けるために。私たちは今、「環境と両立する農業」という未来への投資を、日々の食卓から始めているのです。
